2.倭城の研究意義
倭城は、第1期築城が文禄元(1592)年~同2年、第2期築城が慶長2(1597)年で、同3年の日本軍撤退に伴ってすべて廃城となっている。存続期間は休戦期間を含めても最長で7年間ほどしかなく、最短では僅か1年にも満たない。日本国内に残る近世城郭は、幕藩期に改修を受けた物が多く織豊期の姿を今に伝える物が少ない。それに対して倭城では、一部を除いてその後に改修を受けていないことから、日本城郭史における編年を考えるうえでの基準となっている。
また今を去ること約400余年前に、朝鮮国を支援すべく参戦した明国をも巻き込んだ戦跡を今に伝える、歴史の証人としても貴張な存在となっている。日本人にとって文禄・慶長の役は、他の合戦や古戦場に比して馴染み薄い存在に思える。それは往々にして、戦跡遺跡とは攻めた側よりも攻められた側に多く残るところに起因している。日本で同戦役の痕跡を探すのは容易ではなく、せいぜい肥前名護屋城と陣跡群(佐賀県唐津市)や耳塚(京都府京都市)くらいしか思い浮かばない。しかし一方の韓国の山中を歩けば、慶長の役で日本軍が撤退した当時の姿そのままに、数々の戦跡を目の当りにすることができるのである。



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