5.破壊された倭城
倭城の中には、既に開発行為により消滅あるいは部分的に破壊されたものがある。
狐浦里倭城(慶尚南道梁山市)は都市鉄道2号線「湖浦」駅建設のため早くから開発が進み現在では占地する尾根自体が消滅した。倭城址研究会が1970年代後半に踏査した時点で、既に主郭周辺と出曲輪を残すのみとなっていた(八巻孝夫1999「失われた倭城の遺構について―倭城址研究会の調査から―」『倭城―城郭遺跡が語る朝鮮出兵の実像―』倭城研究シンポジウム実行委員会)。その後、城郭談話会が1991年に踏査した時点では破壊がさらに進行し、主郭相当の主郭背後の石塁と堀切の一部を残すのみとなっていた。そして1990年代末頃には完全に消滅したようである(中井均2014「消えた倭城 狐浦里城」『倭城を歩く』サンライズ出版)。
倭城洞倭城は2018年頃までは非常に良く残っていたが、事前の発掘調査などもなく2018年~19年頃にかけて城跡内に遊園地が建設され(無断開発か)土塁は削平され堀は埋め立てられた。また海岸を通る湾岸道路が建設され、波打ち際の石垣も破壊されたようである(西村和夫氏のご教示)。
熊川倭城は慶尚南道の史跡に指定されているが山麓居館部分は未指定だったのか居館を横断するように農道が開通し石垣の片面が大きく崩され角石のみで支えた“奇跡の一本石垣”状態となっている。
迫門口倭城(釜山広域市)は龍頭山公園の地に築かれたとされるが、戦役後の17世紀になって対馬藩の草梁(チョリャン)倭館が設けられ、さらに植民地時代には龍頭山神社が建立されるなど数奇な運命を辿り、現在では当時の遺構は全く残さない。



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