南海倭城(ナメ倭城)

倭城
韓国名  南海船所倭城(남해선소왜성)ナメソンソウェソン
史跡指定 なし
所在地  南海郡南海邑船所里163-1
築城年代 慶長
築城者  脇坂安治か
主な遺構 土塁、堀、石垣、天守台

【占地】

 城跡は、標高40m(比高ほぼ同じ)の小高い丘陵と、道路をはさんだ南隣の標高20m(比高ほぼ同)の低位丘陵にまたがって占地する。現在、丘陵の南側は干拓事業が進行中だが、往時は入り江が深く入り込む岬状の地形であった。

 当城は史跡には指定されていないが、近年、天守台の樹木が伐採され、登り口には日本人研究者作成の縄張り図入り説明版が設置された。

【歴史】

 慶長2(1597)年に対馬の宗義智が築城し、水軍諸将が守備した。

【遺構】

縄張図(作図:堀口健弐)

 Ⅰ郭が主郭であるが、高石垣で構築されるのはこの周辺のみで、その他は低石垣である。主郭の西隅に、付櫓が付属する複合式天守台を設ける。付近には多量の瓦片の散布が見られ、天守などの主要な建物屋根に瓦が葺かれていたことを物語る。ここから朝鮮半島様式の軒丸瓦とや軒平瓦(滴水瓦)が見つかっている(羅東旭2000「南海倭城の滴水瓦」『倭城の研究』4、城郭談話会)。

明国の従軍画家が描いた『征倭紀功図巻』によると、天守は2層大入母屋に小型の望楼を載せた3層の望楼型天守とし、最上階には高欄を巡らして、初層は下見板張としている。

 主郭の地表面には多数の陶磁器片の散布が見られ、大半は白磁の椀・皿類である。

 道路を挟んだ南側の低位丘陵はⅡ郭が最高所だが、自然地形を多く残して数箇所で低石垣の残欠が見られる。Ⅲ郭は城外に突出した位置にあり、小規模ながらも完結した構造をとる。北・西・南の3方に石垣を巡らし、このうち西と南は石塁囲みの残欠が残る。

 これらの丘麓を取り巻くようにして土塁による外郭線を巡らし、現在、2か所に残欠が残る。 【備考】 海岸線に面した丘麓の露頭には、明国が慶長の役の戦勝を記念して彫られた磨崖碑文「張良相東征磨崖碑」が残り、慶尚南道有形文化財第27号に指定されている。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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