順天倭城(スンチョン倭城)

倭城
韓国名  順天倭城 (순천왜성)スンチョンウェソン
史跡指定 全羅南道記念物第171号
所在地  順天市海龍面新城里山1
築城年代 慶長
築城者  小西行長、宇喜多秀家、藤堂高虎
主な遺構 土塁、空堀、石垣、虎口、天守台

【占地】

 城跡は標高50m(比高ほぼ同じ)の、岬状の低位丘陵上に占地する。現在は埋め立て工事により陸地化したが、かつて周辺は遠浅の海で、外郭線の北端は入り江状となり往時は水堀に近い様相であった。

【歴史】

 慶長2(1597)年に宇喜多秀家と藤堂高虎が共同で築城を担当し、小西行長が守備を担当した。

 慶長3(1598)年の「順天の戦い」では、城を守備する小西軍約1万4千の兵力に対して、明・朝鮮連合軍約5万5千の兵力が城を包囲するが、遠浅の海がこれを寄せ付けず、明・朝鮮軍は攻略断念を余儀なくされた(田川孝三2009『対外関係史辞典』吉川弘文館)。

【遺構】

縄張図(作図:堀口健弐)

 当城は光陽(クヮンヤン)湾に面した独立丘に山城を築き、陸続きの丘陵地帯に合計3重の外郭線を巡らせる。 倭城の中では、外郭線も含めると最大の城域を誇る。

 Ⅰ郭が主郭で、その奥は詰の丸状に一段高くなり、付櫓台を持つ複合天守台を設ける。石垣の角石には矢穴が多く穿たれ、石材規格化の萌芽が見られる。

 丘麓から前面に広がる低位丘陵には3重の外郭線が巡り、大手相当の虎口Aは発掘調査により石垣造りであることが確認された。最も外側の外郭線には途中3か所の小ピークがあり、いずれも凸状に突出した堡塁状となり、B・Cはその中でも一段と独立性の強い構造である。

【備考】

 明国の従軍画家による『征倭紀功図巻』によると、天守は白漆喰塗りの3層の層塔型天守で、2層目の床面が初層よりも張り出す「南蛮造り」となり、最上層には高欄を巡らす。また曲輪を巡る土塀上には屋根瓦が葺かれず、今日、泥棒除けなどに用いる鉄菱のような物を並べる。鉄砲狭間は上下2列に穿ち銃口数を増やしている。いずれも国内の近世城郭とは趣を異にしており、戦時下の城郭建築を考えるうえで大変興味深い。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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