金海竹島倭城(キメチュクド倭城)

倭城
韓国名  金海竹島倭城(왜성)キメチュクドウェソン
史跡指定 釜山広域市記念物第47号
所在地  江西区竹林洞787
築城年代 文禄
築城者  鍋島直茂、鍋島勝茂
主な遺構 堀切、石垣、虎口、天守台

【占地】

 城跡は、西洛東江の右岸に面した標高47.5m(比高40m)の五峰(オボン)山と、その西隣の標高25m(比高20m)の2箇所にまたがって占地する。当城は現在では、あたかも“平山城”のような姿を呈しているが、朝鮮時代末期の『東莱釜山古地図』(東亜大学校博物館蔵)によると、同江に浮かぶ4つの小島に描かれ、往時は文字通り川中に浮かぶ水城であった。

【歴史】

 文禄2(1593)年に鍋島直茂・勝茂が築城し、守備も担当した。また、伊達政宗が石垣普請を担当したともされる(太田秀春2006『朝鮮の役と日朝城郭史の研究』清文堂)。

【遺構】

縄張図(作図:堀口健弐)

 Ⅰ郭が主郭で、北西隅に天守台を置く。この主郭を起点にして各曲輪を直線状に並べ、高低差のない曲輪は石塁で仕切って曲輪とする。北麓にも曲輪を連ね、これらを短い登り石垣で連結する。北斜面は大堀切で遮断するが、ここにも横矢桝形が突出して強力な横矢が掛かるほか、計7か所の横矢桝型を設けて、他の倭城よりも一段と重武装化している。Ⅱ郭では矢穴の残る露岩が複数箇所で見られ、ここが石垣石材を調達した石切丁場であったと考えられる。

高速道路をはさんだⅢ郭一帯が子城で、虎口の周囲のみに石垣を積み、大半は土造りの曲輪となっている。ここが一般兵士の駐屯地に充てられたのであろう。

城内からは地表面観察により、滴水瓦や(黒田慶一1997「倭城の滴水瓦について」『倭城の研究』1、城郭談話会)、日本製の陶器擂鉢と土師器小皿が見つかっている(黒田慶一・橋口亘1999「陶磁器類」『倭城の研究』3、城郭談話会)。

【備考】

 近年、高速道路建設に先立つ事前の発掘調査が行われ、8段の土造りの曲輪、掘立柱穴、柵列などが検出されている(李東注2005「釜山竹島城と亀浦倭城支城部の性格」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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