固城倭城(コソン倭城)

倭城
韓国名  固城倭城(고성왜성)コソンウェソン
史跡指定 慶尚南道文化財資料第89号
所在地  固城郡固城邑水南里一帯
築城年代 慶長
築城者  吉川広家
主な遺構 石垣、天守台

【占地】

 城跡は固城湾の最奥部に位置し、標高20m(比高10未満)の海岸段丘上に占地する。慶尚南道の史跡に指定されているが、倭城の中では最も保存状態が悪い。

現在は干拓事業により海岸線が後退しているが、18世紀の古地図『八道与地図固城』(国立中央図書館蔵)によると、往時は段丘の近くまで海岸線が迫っていた。城外西側は天然の海岸段丘を利用しており、現在でも落差を感じる。

【歴史】

 慶長2(1597)年に吉川広家が築城し、立花宗茂が守備を担当した。

【遺構】

縄張図(作図:堀口健弐)

 Ⅰ郭が最高所で主郭である。東面の一部は、Ⅱ郭から続く帯曲輪が巡り、高石垣による二段築成となる。主郭の東南隅に天守台Aを設ける。現在は主郭面と同じ高さに削平されているが、大正3(1914)年に日本の古蹟調査隊が撮影した古写真によると、周囲よりも一段高く築かれているのが分かる。

 当城の外郭線は昭和初期の測量図『九大倭城図』によると、朝鮮王朝が築いた固城邑城を外郭線に取り込んだ縄張りとなっている(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)。

【備考】

 固城邑城は、世宗30(1448)年に土城から石城に改修され(晋州博物館2014『固城』)、城壁は海岸段丘の縁辺部に沿うように築かれている。現在では都市開発により多くが消滅したが、遺構は下町の路地裏に民家の基礎などになって辛うじて部分的に残存し、最高所は高さ約3mである。また一部は、道路建設に伴う事前の発掘調査後に消滅した。

『八道余地図固城』によると、往時は東・南・西の三方に城門を開口していた。主郭に近い南辺には高さ約2mの石塁が残り、その傍らには南門の遺構(甕城)Bが僅かに残る。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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