釜山子城台倭城(チャソンデ倭城)釜山子城

倭城
韓国名  釜山鎮城(부산진성)プサンジンソン
史跡指定 釜山広域市記念物第7号
所在地  東区凡一洞590-5(子城台公園)
築城年代 文禄
築城者  毛利輝元
主な遺構 石垣、虎口、天守台

占地

 当城は、釜山倭城(母城)に対する一城別郭の「子城」として築かれた。そのため韓国では、「子城台倭城」として独立した別個の城郭のように扱われている。

 城跡は、標高34m(比高ほぼ同じ)の独立丘に占地する。すぐ東側に東川が流れて、南方に釜山湾を望む。現在は近代以降の埋立事業により海岸線が後退したが、1907年に撮影された古写真や朝鮮時代後期の絵画史料等によると、往時は丘麓まで波打ち際が迫り、残る三方に海水を引き入れた惣構が巡っていた。

歴史

 文禄元(1592)年に毛利秀元が築城し、慶長3(1598)年には寺沢広高が守備を担当した。日本軍撤退後は、朝鮮水軍の釜山鎮支城として再利用された。

 また江戸時代に行われた朝鮮通信使では、漢城(ソウル特別市)を陸路で出発した通信使が船に乗り換える、海路の出発点でもあった。2011年、これを記念して丘麓に朝鮮通信使歴史館が開館した。

遺構

縄張図(作図:堀口健弐)

 Ⅰ郭が主郭である。現在は鎮城時代の楼閣「鎮南台」が復元されている。

 Aは天守台で、現状は公園化に伴い曲輪面と同一レベルに削平されているが、1900年代初め頃に撮影された古写真によると、曲輪面より一段高く築かれているのが分かる(写真展『佐川歴史物語』より)。

 Ⅱ郭の虎口Bは、石積みで虎口を閉塞した痕跡が認められ、本来の導線が読み取れる。

備考

 戦前に丘陵斜面の地中から、蝶紋様をあしらった日本式の軒平瓦が発見されている。これは沖城(長崎県諫早市)から出土した軒平瓦と同范で、対馬の宗氏との関連で見る向きもある。数は少ないが、これは倭城築城時に日本から朝鮮半島に持ち込まれた和瓦とみられる(高正龍2019「豊臣秀吉の朝鮮侵略と和瓦の伝播―韓国釜山子城台倭城と長崎県諫早市沖城の揚羽蝶文軒平瓦―」『東アジア瓦研究』6、東アジア瓦研究会)。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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