子馬倭城(チャマ倭城)

倭城
韓国名  子馬倭城(자마왜성)チャマウェソン
史跡指定 なし
所在地  昌原市鎮海区城内洞山21
築城年代 ?
築城者  ?
主な遺構 堀、石塁

【占地】

 城跡は、標高240m(比高ほぼ同じ)の子馬山の山頂部を中心に占地する。山頂からは熊川倭城、明洞倭城、安骨浦倭城、鎮海湾をはさんで加徳倭城、永登浦倭城を一望することができる。

【歴史】

 韓国では対馬の宗義智が築城したと伝えられるが、史料上の来歴は定かでない。

【遺構】

縄張図(作図:堀口健弐)

 山頂部から南斜面にかけて堀と石塁を楕円形に巡らす、小規模な朝鮮式山城である。城壁内部は削平が甘いながらも、数段の曲輪状に造成されている。朝鮮式山城は空間を城壁で囲郭するだけの単純な構造で、日本式城郭のような曲輪の概念自体が存在しないので、この曲輪状地形は日本側の改修の可能性もある。

【備考】

縄張図(作図:堀口健弐)

 同山中に「日本式遺構」が存在することが、高瀬哲郎氏によって報告された。それによればB地点に「大堀切」、C地点に「7~8条の連続する竪堀(いわゆる畝状竪堀)が存在するとされる(高瀬2000「倭城跡を訪ねて(2)」『研究紀要』6、佐賀県立名護屋城博物館)。

山頂から続く東尾根上に「B地点」が存在する。Ⅱ郭を中心とする尾根には、削平の甘い3~4段の曲輪を連ね、その周囲を1~2段の帯曲輪が取り巻いている。当地は三国時代の「熊川貝塚」として史跡指定されているが、それとは時期が異なる朝鮮時代の陶器片や滴水瓦などの瓦片の散布が見られる。この曲輪群を少し下った地点に2条の竪堀を掘削して(土橋を掘り残した堀切と呼ぶべきか)、尾根前方を遮断している。

B地点からさらに尾根続きの標高140m地点に、「C地点」が存在する。山頂部は自然地形の平坦地のままで、人工的な曲輪にはなっていない。ここから放射状に6条の「畝状竪堀」状の微地形が展開し、南西斜面には、数か所で低い石積みも存在する。ただこれを「日本式遺構」と見なして良いかは慎重になりたい。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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