韓国名 訥次倭城(눌차왜성) 史跡指定 なし 所在地 釜山広域市江西区訥次洞626 築城年代 文禄 築城者 毛利輝元 主な遺構 石垣、虎口、天守台
占地
城跡は、本土と加徳島に挟まれた加徳水道に浮かぶ訥次(ヌルチャ)島の南端に位置し、標高70.5m(比高ほぼ同じ)の山頂部を中心に占地する。訥次島の周辺海域は、干潮時は一面干潟となる遠浅の海であったが、2000年代から始まった釜山新港建設に伴う大規模な埋め立て工事により、現在では本土と加徳島とが陸続きになった。
歴史
文禄2(1592)年に毛利輝元が築城した。
遺構
Ⅰ郭が最高所で主郭である。外周を石垣で固め、曲輪の内側は低い土塁となる。北西隅Aが僅かに張り出して側面に横矢が掛かり、虎口Bは内枡形となる。Ⅰ郭の周囲には、曲輪とも後世の段々畑とも判断しかねる雛壇状地形が延々と続くが、主郭周辺には途切れながらも日本式石垣がが見られることから、この辺りまでは城域であったことが窺える。
Ⅱ郭は痩せ尾根上に築かれ、低いながらも石垣を築いて数段の曲輪を連ねる。ここからは海峡を挟んで、対岸の加徳島に位置する加徳支城を眼前に望むことができる。
Ⅲ郭は尾根暗部を挟んで、やや独立性が高い位置にある。周囲を帯曲輪で囲郭するが、曲輪面と帯曲輪に高低差があり、昇降ルートは不明である。
備考
韓国側では加徳島の城跡を「加徳倭城」、訥次島の城跡を「加徳支城」と呼ぶが、加徳島の城跡は典型的な朝鮮式山城で、日本式に改修された形跡は見当たらない。朝鮮時代末期の『1872年地方地図 慶尚南道熊川県地図』(ソウル大学校博物館蔵)によると、訥次島の城跡のある山に石垣状の描写があり、漢字で「倭古堞」と記されている(「堞」は城壁や垣根の意味)。一方の加徳島の城跡には、特段何の表記もない。このことから19世紀末まで訥次島の城跡を加徳倭城と認識していたものが、近代以降になって「加徳倭城」と「加徳支城」の位置認識が入れ替わって、後世に誤伝されたと考えられる。
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