泗川倭城(サチョン倭城)

倭城
韓国名  泗川船津里城(사천선진리성)サチョンソンジンニソン
史跡指定 慶尚南道文化財資料第274号
所在地  泗川市龍現面船津里402(船津里公園)
築城年代 慶長
築城者  毛利吉成、長宗我部元親
主な遺構 土塁、堀

【占地】

 泗川湾を眼下に望む、標高30m(比高同じ)のなだらかな低位丘陵に占地する。

城跡周辺の海域は遠浅の海で、干潮時は一帯が干潟と化す。現在は西側のみが泗川湾に望むが、植民地時代に作成された地形図によると、かつては北側と南側は入江となり、三方を海に囲まれた岬状の地形であった(国立晋州博物館2016『西部慶南の城郭』)。

当城は、植民地時代より旧城主の子孫らが記念碑を立てるなどして顕彰され、戦後は泗川市民公園となった。

【歴史】

 慶長2(1597)年に長宗我部元親・毛利良成らが築城し、島津義弘・忠恒らが守備した。

慶長3年に勃発した「泗川の戦」では攻め寄せる明・朝鮮数万の大軍に対して(兵力数は諸説あり)守備する島津軍7000の兵力で撃退に成功し(北島万次2005「文禄・慶長の役」『戦国武将合戦事典』吉川弘文館)、朝鮮側から「鬼島津」と恐れられたと云う。

【遺構】

縄張図(作図:堀口健弐)

 Ⅰ郭が主郭である。北西隅に付櫓台を持つ天守台Aを設ける。虎口Bは内桝形虎口となり、近年、城門が復元された。石垣の一部には矢穴を残すものも見られたが現在では史跡整備に伴い新しい石材に交換されたため見ることはできない。

東方に展開する外郭線は、高麗時代初期に築かれた通洋(トンヤン)倉城の土塁と空堀を外郭線として取り込んだ縄張りとなっている(太田秀春・髙田徹2005「文禄・慶長の役における日本軍の朝鮮城郭利用について―島津氏の事例を中心に―」『城館史料学』3)。

【備考】

 近年、泗川市によって石垣の積み直しや城門の復元などの史跡整備が行われ、展示館も建設された。城門の復元に際して平面構造は発掘成果を基にしたが、上屋構造に関しては史料がなく、近世城郭の典型例としいて姫路城を参考にした。しかし軒平瓦の家紋を、姫路城主池田家の家紋の「揚羽蝶」にするなど、一部で誤った復元も見られる。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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