長門浦倭城(チャンムンポ倭城)

倭城
韓国名  長門浦倭城(장문포왜성)チャンムンポウェソン
史跡指定 慶尚南道文化財資料第273号
所在地  巨済市長木面長木里130-43
築城年代 文禄
築城者  蜂須賀家政

【占地】

 城跡は、巨済島の北端に位置し、鎮海湾に突き出た岬の最高所、標高106.4m(比高同じ)地点と西隣の標高80m(比高同じ)の小ピーク上を中心に占地する。長木湾を挟んだ対岸の松真浦城と向き合う位置にあり、両城が連携して湾口を守る配置である。

【歴史】

 文禄2(1593)年に蜂須賀家政が築城し、蜂須賀と生駒親正が1年交代で守備したとされるが、他の四国系大名とする説など諸説ある。

【遺構】

縄張図(作図:堀口健弐)

 縄張りは、極めて独立性の強い二つの曲輪群で構成される。それぞれの曲輪群に主郭相当の曲輪と天守台を設け、外郭線で岬の陸続き側とを完全に遮断する。

最高所のA区のうちⅠ郭が主郭で、北隅に天守台を設ける。南に続く曲輪群は高低差がほとんどなく、仕切り石塁で曲輪を構成する。ここから3条の外郭線を延ばし、このうちの2条の外郭線で西隣のB区を囲郭する。

外郭線は現在の破壊道を除くと虎口が見当たらず、外郭線から城外に出入りする構造になっておらず、完全に陸続きとを遮断する意識が強い。

Ⅱ郭がもう一つの主郭で、同様に西隅に天守台を設ける。Ⅱ郭から南の尾根暗部に向けて、カニ挟み状の短い登り石垣で城道を保護している。

B区の東・西斜面には、削平の甘い雛壇状地形が麓近くまで延々と続くが、石垣や虎口などの防御施設は見られず、曲輪か後世の林業などに伴う造成地なのか判断に迷う。

この他にも、岬の突端部にも独立性の強いⅢ郭とⅣ郭を配置する。

【備考】

 長木湾には明治時代に旧日本海軍の艦隊泊地が設けられ、時代を越えた軍事上の要衝地であった。現在でも当城の麓に「軍港浦(クナンポ)」の地名やバス停名が残る。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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