西生浦倭城(ソセンポ倭城)

倭城
韓国名  西生浦倭城(서생포왜성)ソセンポウェソン
史跡指定 蔚山広域市文化財資料第8号
所在地  蔚州郡西生面西生里711
築城年代 文禄
築城者  加藤清正
主な遺構 石垣、虎口、登り石垣、天守台

占地

 城跡は標高133m(比高ほぼ同じ)の山頂と、海岸段丘をはさんだ海岸線に近い小丘陵にまたがって占地し、眼下に日本海を望む。

歴史

 文禄2(1593)年に、後世に“築城の名人”と謳われた加藤清正が築城し、文禄の役では自ら守備し、慶長の役では清正と黒田長政が守備した。

 慶長3(1598)年の日本軍撤退後、当城は朝鮮水軍の西生鎮城として再利用されたが、17世紀の絵画史料『蔚山西生鎮地図』によると鎮城の利用は外郭線内に留まり、山頂部は放棄されていた(太田秀春2011「朝鮮王朝の日本城郭認識」『倭城 本邦・朝鮮国にとって倭城とは』倭城研究シンポジウム実行委員会・城館史料学会)。

遺構

縄張図(作図:堀口健弐)

 当城は、倭城の中でも屈指の保存状態の良さを誇る。山頂部に山城を築いて、海岸線に近い小丘に一城別郭の曲輪(Ⅲ郭)を築き、その間を2条の長大な登り石垣で連結して内部(Ⅱ郭)を駐屯地とすることで、縄張りの一体化を図っている。山城は主郭を頂点に曲輪を連ね、曲輪ごとに枡形虎口を連続して開口させる。曲輪は高石垣で築かれるが、石垣周囲にも横堀を巡らして、そこから数条の竪堀を落す。

Ⅰ郭が主郭で、西北隅に天守台を設ける。朝鮮側の史料によると、ここには実際に天守が建てられていたようである(松井一明2014「西生浦城」『倭城を歩く』サンライズ出版)。

Bは櫓台状の突出部であるが、熊本城の「二様の石垣」のように異なった時代の石垣が重なり合うようにして残る。直線的な石垣の上に積み足された石垣には僅かに反りが見られ、熊本城に見られる「扇の勾配」の萌芽を彷彿させる。

登り石垣に開口する虎口Cには、高さ2.5m×厚さ76㎝ほどの倭城最大の立石があり、ここが大手虎口と思われる。

備考

 西生浦倭城には、後に天下の名城と謳われた熊本城のプロトタイプとも言える遺構が残り、清正の築城技術の発展を考えるうえでも大変重要な城郭遺跡である。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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