亀浦倭城(クポ倭城)

倭城
韓国名  亀浦倭城(구포왜성)
史跡指定 釜山広域市記念物第6号
所在地  釜山広域市北区徳川1洞93
築城年代 文禄
築城者  小早川隆景、立花宗茂
主な遺構 竪堀、石垣、虎口、登り石垣

占地

 城跡は、釜山広域市と金海市を隔てる洛東(ナクトン)江の下流域左岸、標高100m(比高90m)の半島状丘陵上に占地する。丘頂に立つと、北に梁山倭城を間近に望み、南西の彼方には洛東江を挟んで金海竹島倭城を望むことができる。

 現在は丘全体が徳川(トクチョン)市民公園となり、遊歩道や説明板が設置さてている。

歴史

 金海竹島倭城の支城として、文禄2(1593)年に小早川隆景が築城し、守備も担当した。

遺構

縄張図(作図:堀口健弐)

 丘の中央に主郭を置き、中腹部にかけて各曲輪を配置して短い2条の登り石垣でこれらを連結し、縄張りの一体化を図っている。

Ⅰ郭が主郭で曲輪の削平は悪く、北端から南に向かて緩やかに傾斜する。虎口Aに櫓台状の張出しがあり、ここから強烈な横矢が掛かる。虎口BとCは両脇が石壇状になり、ともに櫓門が想定できる。背後の北尾根は幅20mの大堀切で遮断する。現在、麓は亀龍(クリョン)寺の境内となっているが、この辺りも元々は曲輪の可能性が高いと思われる。

 曲輪群を取り巻く帯曲輪Ⅱには、畝状竪堀群と思われる微地形が存在し、北側に7条と間を空けて南側に4条の計11条を連続して設けている。また単独の竪堀D・Eは、いずれも上端部(竪堀の出発点)に石垣が積まれている。

備考

 南海岸高速道路を挟んだ南隣に位置する標高40 mの丘陵部で、スケート場建設に先立つ事前の発掘調査が実施された。地表面観察では遺構を残さなかったが、発掘の結果、掘立柱建物20棟や岩盤を掘り込んだ堀などが検出されたほか、日本の備前焼擂鉢が出土した(李東注2005「釜山竹島城と亀浦倭城支城部の性格」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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