倭城とは

倭城
朝鮮に降伏し、火縄銃の技術を伝えたといわれる謎の戦国武将・沙也可の墓

1.文禄・慶長の役と城郭

 「倭城」とは、文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)で(註1)、日本軍が侵攻地の大韓民国南岸一帯に築いた日本式城跡群の総称である。「倭城」という名称は既に17世紀に描かれた朝鮮側の絵画史料に見られ、また戦前の日本では釜山倭城など一部の城跡に対して「日本城」とも呼んでいた。

 文献史料によると、「繋ぎの城」と呼ばれる北進のため中継基地が平壌(ピョンヤン)やソウルにも築かれたとされるが、現在では遺構が完全に消滅しか、地表面観察で確認できない状況にある。倭城は数え方にもよるが(註2)、蔚山(ウルサン)広域市から全羅(チョルラ)南道順天(スンチョン)市にかけて、25城の城跡が残存している。

巨済府圖に記された「倭城村」は倭城洞倭城跡(金海博物館特別展「巨済島、大きな波を渡る」展示品を撮影)

 豊臣秀吉は、天正18(1590)年の小田原の役で後北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げると、次なる野望を「唐入り」に定め、朝鮮半島への侵攻を目論んだ。この戦役は朝鮮国(現在の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国)と友好関係にあった明国(現在の中華人民共和国)が救援に参戦し、極東アジアを震撼させた戦いへと発展した。

 先ず天正19(1591)年に、日本側の本営となる名護屋城と各大名の陣所を肥前国鎮西湾一帯(佐賀県唐津市)に築き、さらに渡海時の中継基地として、同年、壱岐に勝本城(長崎県壱岐市)と対馬に清水山城(長崎県対馬市)を築城した。

 天正20(1592)年、小西行長・宗義智の一番隊が釜山浦(プサンポ)に上陸し、多大浦(タデポ)鎮城の攻城戦で開戦の火蓋が切って落とされた(文禄の役)。その後は朝鮮王朝側の東莱(トンネ)邑城、金海(キメ)邑城、梁山(ヤンサン)邑城、清道(チョンド)邑城、彦陽(オニャン)邑城、蔚山兵営城、慶州(キョンジュ)邑城、古県(コヒョン)邑城などを破竹の勢いで落城させ、瞬く間に当時朝鮮王朝の首都であった漢城(ソウル特別市)をも陥落させた。

 しかし地上戦での快進撃とは裏腹に、海戦では李舜臣(イ・スンシン)が率いる朝鮮水軍に苦戦を強いられることになった。

 開戦当初、日本軍は釜山倭城など少数の司令塔的な倭城を除くと、加徳(カドク)支城や熊川(ウンチョン)邑城のように、占拠した朝鮮王朝側の城郭をそのまま利用するか、旧永登(クヨンドゥン)鎮城のように朝鮮王朝側の城郭を多少日本式に改修して駐屯していた。しかし優勢な朝鮮水軍に対抗すべく、文禄元(1592)年から翌2年にかけて「仕置之城」と呼ばれる西生浦(ソセンポ)倭城、林浪浦(イムナンポ)倭城、機張(キジャン)倭城、東莱倭城、東三洞(トンサムドン)倭城、亀浦(クポ)倭城、金海竹島(キメジュクト)倭城、加徳倭城、安骨浦(アンゴルポ)倭城、熊川倭城、明洞(ミョンドン)倭城、永登浦(ヨンドゥンポ)倭城、松真浦(ソンジンポ)倭城、長門浦(チャンムンポ)倭城など、本格的な倭城の築城を開始したのであった。

 文禄4(1595)年、明国の沈惟敬と小西との会談により休戦協定が結ばれ、その際の条件として多くの倭城は一旦廃城となった。しかし加藤清正はこれに反発して機張倭城の廃城を拒否し、また釜山倭城、金海竹島倭城、加徳倭城、安骨浦倭城も計画だけで実際には廃城を免れた(藤本正行1979「倭城の歴史」『倭城』Ⅰ、倭城址研究会)。

 文禄5(1596)年、大坂城で秀吉と明国使節団とが接見し、ひとまずは成功裡に終えた。しかし続く堺で行われた日明代表による会談で、倭城の破却と日本軍の撤退が問題となって和平合意が決裂し(中野等2008『文禄・慶長の役』吉川弘文館)、1597(慶長2)年に再度派兵を決定した。これが慶長の役である。

漢陽都城東大門(ソウル特別市東大門区)小西行長はここから入城したとされる

 慶長の役では、休戦協定により一旦廃城となっていた倭城を復活させたうえで、新規に蔚山倭城、梁山倭城、馬山(マサン)倭城、固城(コソン)倭城、倭城洞(ウェソンドン)倭城、泗川(サチョン)倭城、南海(ナメ)倭城、順天倭城を追加築城するに至ったのであった。

 慶長の役(いわゆる三路の戦)では、最東端の蔚山倭城(蔚山の籠城戦)と最西端の順天倭城(順天の戦)、それに泗川倭城(泗川の戦)で明・朝鮮連合軍との間で、実際に攻城戦が繰り広げられた。しかしいずれの倭城でも、兵力数で大きく上回る明・朝鮮連合軍の攻撃に耐え抜き、落城を免れている。

 慶長3(1598)年、秀吉が逝去すると日本軍は撤退を決意する。最後の戦いとなった露梁海戦を経て巨済島に一旦終結した後、全軍本国への帰還の途に就き、ここに慶長の役は終結した。

露梁に停泊する亀甲船を模した遊覧船

 慶長の役の終結後、釜山子城台倭城や西生浦倭城のように、朝鮮王朝側の鎮城(朝鮮水軍の基地)として再利用されたものがある。しかしいずれも外郭線を鎮城の城壁として利用するにとどまり、山城部分は城郭として利用されなかった。泗川倭城や南海倭城では、港のみが朝鮮水軍の軍港として一時期利用された(太田秀春2011「朝鮮王朝の日本城郭認識」『倭城:本邦・朝鮮国にとっての倭城とは』倭城研究シンポジウム実行委員会・城館史料学会)。

 また朝鮮王朝は日本軍による3度目の来襲を警戒し、釜山浦を見下ろす地に韓国最大規模を誇る金井山(クムジョンサン)城を築いてこれに備えたが、三度戦火を交えることはなかった。

註1 韓国では文禄の役を「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」、慶長の役を「丁酉再乱(チョンユジェラン)」と呼ぶが、両戦役を一括して壬辰倭乱と呼ぶことが多い。また北朝鮮では「壬辰祖国戦争」、中国では「万歴朝鮮役」と呼ばれている。

註2 日本軍が朝鮮側の城郭をそのまま使用しただけの物、明確な遺構が残らない呼称地は除外した。また一城別郭の釜山子城台倭城は、釜山倭城と1セットとして数えた。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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