加徳支城(カドク支城)

倭城
韓国名  城北倭城(성북왜성)ソンブクウェソン
史跡指定 なし
所在地  江西区城北洞山43
築城年代 高麗
築城者  小早川秀包、立花宗茂?
主な遺構 石塁、甕城、将台

【占地】

 城跡は、加徳島最北端に位置する標高155.7m(比高ほぼ同じ)のカルマ峰を中心に占地する。山頂からは、加徳水道を隔てた訥次島の加徳倭城を見下ろす位置にある。

【歴史】

 当城は高麗王朝が13世紀に築いた山城で、文禄の役には日本軍が占拠して、小早川秀包・立花統虎・高橋統増・筑紫広門などの大名らが共同で守備を担当した(羅東旭1999「韓国釜山市域の倭城の現状」『倭城―城郭遺跡が語る朝鮮出兵の実像―』倭城研究シンポジウム実行委員会)。

【遺構】

縄張図(作図:堀口健弐)

 縄張りは典型的な朝鮮式山城で、山頂部を中心に石塁を巡らせた内城と外城による二重構造である。ただし朝鮮半島の城郭の場合、日本の本丸と二の丸のような関係ではなく、城域を拡張して改修した場合に、このような縄張りになることが多いようである。

Ⅰ郭が内城で、平面形が楕円形を呈し、山頂部から東斜面を囲うように石塁が巡る。城壁は内外面ともに石垣の挟築により、コーナー部は直角ではなく曲線状に積まれている。石材は直方体の粗割石をレンガ状に積み上げ、内部はグリ石のみで構築されている。

 山頂部の最高所に「将台」と呼ばれる櫓台Aを設ける。その直下に城門Bを開口するが、半円形の石塁を内枡形状に内側に向けて築いた「内甕城」となる。付近には山中では産出しない人頭大ほどの河原石風自然石の集積が認められ、地元では投石用と伝承されている。

 Ⅱ郭は外城で、小ピーク部を経由しながら石塁が尾根筋上に城壁を連ねながら、緩斜面を大きく囲い込む。この空間内に数段の小さな削平地が見られるが、朝鮮式城郭では基本的に曲輪がないので、この箇所は日本側による改修の可能性もある。この石塁は途中の鞍部では土塁となり、部位による普請形態の使い分けが見て取れる。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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