蔚山倭城(ウルサン倭城)

倭城
韓国名  蔚山倭城(울산왜성)ウルサンウェソン
史跡指定 蔚山広域市文化財資料第7号
所在地  中区鶴城洞100 (鶴城公園)
築城年代 慶長
築城担当 浅野幸長ら
主な遺構 石垣、虎口、登り石垣、櫓台

占地

 蔚山城は、倭城築城網の中では最東端に位置する。蔚山湾に注ぐ太和江(テファガン)河口近くの左岸に面した、標高50m(比高ほぼ同じ)の小高い独立丘陵「鶴城(ハクソン)山」に占地する。城跡は鶴城公園となり、城跡を示す石碑や説明板(日本語あり)なども設置されている。近年、発掘調査に基づいた石垣の史跡整備も実施されている。

歴史

 慶長2(1597)年に築かれ、当初は浅野幸長が守備を担当した。同年から翌3(1598)年にかけて繰り広げられた「蔚山の籠城戦」では、同城を包囲する6万人近い明・朝鮮連合軍に対し、救援に駆けつけた加藤清正らの籠城軍約2300人の兵力で撃退に成功した(峰岸純夫・片桐昭彦編2005『戦国武将合戦事典』吉川弘文館)。しかし籠城側も、寒さと餓えで戦死者が続出する苛烈な戦闘となったが、城は落城することなく猛攻を耐え抜いた。

遺構

縄張図(作図:堀口健弐)

 蔚山市は、1980年代以降に現代(ヒョンデ)財閥の企業城下町として急速に開発が進んだため、遺構の保存状態はあまり良くない。

 縄張りは、丘頂から東麓にかけて4箇所の曲輪を配置する。Ⅰが主郭で、AとBの2箇所に内枡形虎口を開口する。特に虎口Aは櫓台状に突出して横矢が掛かる。

 Ⅲ郭に近接する箇所には横矢掛かりの突出部「横矢桝形」が見られるが、かなり崩壊が著しく、石垣の残欠を頼りにかろうじて輪郭を追う事ができる。なおⅠ・Ⅱ郭とⅣ郭とは2条の短い登り石垣で連結して、上下の一体感を図っている。

備考

 1970年代後半頃まで、太和江のまで延びる外郭線や、2箇所の子城が存在していたが、(倭城址研究会1989「蔚山倭城」『作戦研究 戦国の籠城戦』新人物往来社)、現在では市街地化に飲み込まれて完全に消滅した。しかし近代に撮影された古写真では、Ⅳ郭から延びる外郭線土塁を窺い知ることができる。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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