熊川倭城(ウンチョン倭城)

倭城
韓国名  熊川倭城(운천왜성)ウンチョンウェソン
史跡指定 慶尚南道記念物第79号
所在地  昌原市鎮海区南門洞山196
築城時期 文禄二年(1593)
築城者  小早川隆景、上杉景勝、小西行長
主な遺構 竪堀、登り石垣、虎口、天守台

占地

 城跡は、標高184.3m(比高ほぼ同じ)の南山(ナムサン)山頂部から、山麓の臥城(ワソン)集落一帯にかけて広範囲に占地する。現在では釜山新港建設に伴う埋め立て事業により海岸線が後退したが、1990年代までは鎮海湾に突き出た岬であった。ここからは臥城湾を挟んだ対岸に、安骨浦倭城を望むことができる。

歴史

 文禄元(1592)年に上杉景勝と小早川隆景が共同で築城したが、上杉のみで築城したとする説もある。守備は小西行長が担当した。当城より西方1㎞には、室町時代から日本人居留地の齊浦(チェポ)倭館が設けられており、古くより良好として整備されていた。

遺構

縄張図(作図:堀口健弐)

 山頂部に山城を築き、3条の長大な外郭線で陸続きの岬を完全に遮断する。Ⅰ郭が主郭で、北西隅に天守台を設ける。虎口は外枡形となり、そこから城外に向かって枡形虎口を何重にも連ね、倭城の中でも特に厳重な防禦となる。尾根上に連なる曲輪はお互いに高低差があまりなく、石塁によって空間を創出している。石塁には守備兵が昇降用する雁木坂が数多く見られる。

外郭線は登り石垣とその前面に掘られて並走する竪堀により構成され、山頂から山麓部まで達する。特に北側の竪堀は中腹から山麓にかけて一部で二重となり、途中に堡塁的な小曲輪を2箇所に設ける。

外郭線に囲郭された空間内には、家臣団屋敷と思われるひな壇状地形(未調査)が斜面一帯に広がる。Ⅳ郭は山麓居館で、前面は高石垣で区画され背後は堀切で遮断する。 【備考】 2014年に山麓を通過する湾岸道路が建設され、これに伴う事前の発掘調査を行ったところ、岩盤を掘り込んで築かれた6条の畝状竪堀群が出土した(海東文化財研究院2016『昌原熊川倭城・所沙洞遺蹟』)。従来、織豊系城郭は畝状竪堀群を使用しないとされてきたが、織豊系城郭における畝状竪堀群の使用に対して一石を投じる結果となった。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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