永登浦倭城(ヨンドゥンポ倭城)

倭城
韓国名  永登倭城(영등왜성)ヨンドゥンウェソン
史跡指定 なし
所在地  巨済市長木面旧永里山6-17
築城年代 文禄
築城者  島津義弘、島津忠恒
主な遺構 土塁、空堀、虎口

【占地】

 城跡は巨済島最北端に位置する、標高220mの山頂を中心に占地する。眼下に鎮海湾を望み、現在も龍院(安骨浦)方面からのフェリーが発着する。

近年、背後の大峰(テボン)山山頂に鉄塔が建設され、これに伴う工事車両用道路が尾根上に建設されたため、遺構の一部が破壊を被った。

【歴史】

 文禄元(1591)年に島津義弘・忠恒が築城した。慶長の役では巨済島が日本軍撤退時の集合場所に決められており(角田誠1997「文禄・慶長の役における港湾防禦の一形態―巨済島長木浦の場合について―」『倭城の研究』1、城郭談話会)、文字通り“最後の砦”としての任務を担っていた。

【遺構】

縄張図(作図:堀口健弐)

 縄張りは、Y字形に展開する痩せ尾根上に占地する。尾根上を石塁で幾重にも仕切ることで曲輪を形成し、石塁は食い違い虎口となる。Ⅰ郭が主郭で、西側に張り出すように天守台を設けるが、一旦“詰の丸”状の小空間を通って天守に入る構造である。

Ⅲ郭からⅡ郭へは、一旦城外に出て少し下ってからⅡ郭に入る構造で、その間この通路はⅡ郭からの射程にさらされることになる。

 城域の両端から、西南斜面を下るように2条の竪土塁(一部は石積み)と竪堀を谷底に向かって延す。この外郭線は一旦途切れて、今度は鍵の手状の石塁となって谷底の流路部分を残すように塞ぐ。石塁は高さ約1.5mで、内部をグリ石のみで築いている。外郭線で囲郭された空間内には雨水が流れた谷が見られる。

【備考】

 2条の外郭線で囲まれた空間は、緩斜面ではないので一般兵士の駐屯地としての利用は困難と思われる。石塁が先端部で食い違いとり谷間を塞いでいるので、敵兵の谷伝いの進撃を阻止すると同時に、水の手を確保する狙いがあったと思われる。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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