韓国名 見乃梁倭城(경내량왜성)キョンネリャンウェソン 史跡指定 なし 所在地 巨済市沙等面徳湖里267-2 築城年代 慶長 築城者 ? 主な遺構 土塁、空堀、虎口
【占地】
城跡は、標高10m(比高ほぼ同じ)の海岸段丘上に占地し、南側を広里(クヮンニ)川が流れ、これが天然の堀の役割を果たしている。当城は、鎮海(チネ)湾と外洋を結ぶ見乃梁(キョンネリャン)海峡に近く、また眼前には朝鮮水軍の基地があった閑山(ハンサン)島があり、これらに対する抑止力を狙ったと思われる。
【歴史】
慶長2(1597)年に、対馬宗氏の家臣が守備を担当したようである(早川圭2014「見乃梁城」『倭城を歩く』サンライズ出版)。
【遺構】
当城は一部に石垣を用いるものの、全体的に土塁と空堀で構成され、また段丘上に占地することから平城に近い縄張りである。Ⅰ郭が主郭で、西隅に外枡形虎口Aを開口する。
Ⅱ郭は土塁と空堀によって囲郭され、三方に3か所の開口部を持つ。地元ではこれを「北門・東門・西門」と呼んでいるが、Dは耕作に伴う破壊の可能性が高いと思われる。虎口B・Cは平入り虎口で、土橋でⅢ郭と連絡する。現在、堀の一部は滞水して水堀状を呈するが、これは地盤自体が保水力の高い赤土の粘土のため、雨水が貯まって水堀状になったように見える。
Ⅲ郭は城内で最も広い空間であるが、起伏があって自然地形をあまり造成していない。そして段丘の地続きを土塁と空堀で遮断して、大手相当の外枡形虎口Eを開口する。
海岸線には一部に折れを持った石垣があり、石材が1~2段程度が残存する。
【備考】
当地には、城名にもなっている「倭城洞」という地名は存在しない。しかし朝鮮時代後期の古地図『巨済府図』(東亜大学校石同博物館蔵)によると、倭城の堀跡を描いて、その中に漢字で「倭城村」と記されている(植本夕里氏のご教示)。「洞」は近代から2000年代まで使用された集落の行政単位で、「村」と「洞」は概ね同義語であることから、時代とともに「倭城村」から「倭城洞」へと呼び名が変化したものと思われる。
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