馬山倭城(マサン倭城)

倭城
韓国名  馬山倭城(마산왜성)マサンウェソン
史跡指定 なし
所在地  昌原市馬山合浦区山湖洞531-2(山湖公園)
築城年代 慶長
築城者  鍋島直茂
主な遺構 石垣、竪堀、竪土塁、登り石垣、櫓台

【占地】

 城跡は、馬山湾の最奥部独立丘の龍馬(ヨンマ)山から派生する尾根上小ピークの、標高90m(比高ほぼ同じ)地点に占地する。

 城跡一帯は早くから山湖(サノ)市民公園となり、近年の公園整備により遊歩道が開通したことで登り石垣の一部が分断されるなど、遺構破壊の進行が目立つ。

【歴史】

 慶長2(1597)年に鍋島直茂・勝茂らが、金海竹島倭城の支城として築城し、守備も担当した。

【遺構】

縄張図(作図:堀口健弐)

 当城の石垣の使用は、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ郭にほぼ限定される。Ⅰ郭が主郭で南辺に高石垣を積み、東辺には土塁状の僅かな高まりが認められる。北辺から西辺にかけて現在の石積みとなるが、往時もこの箇所は石垣であったと思われる。背面の南西隅には櫓台状の突出部があり、壁際に向けて横矢が掛かる。主郭背後は堀切状の谷地形が大きく入り込んで、尾根続きを遮断している。

Ⅱ郭は、登り石垣と竪堀の2条の外郭線で上位の曲輪と連結する。但し登り石垣は完全にⅡ郭と連結しておらず、両曲輪間の繋がりが把握しづらい。なお竪堀の外部に向かって石積みの櫓台が突出し、この堀を越えてくる敵兵への掃射を狙っている。

Ⅱ郭以下は土造りの小さな曲輪を数段重ね、部分的に低い石垣が積まれているに過ぎない。Ⅲ郭は城域の最下段に位置する曲輪で、ここには高石垣が積まれており、横矢掛りの張り出しを城外に向かって突出させる。

【備考】

 当地は文永11(1274)年に勃発した元寇(文永・弘安の役)では、元・高麗連合軍の出撃基地となったことで知られており、古くから天然の良港として栄えていた。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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