韓国名 林浪浦倭城(임랑포왜성)イムナンポウェソン 史跡指定 なし 所在地 機張郡長安邑林浪里山48 築城年代 文禄 築城者 毛利吉成ら 主な遺構 堀切、畝状竪堀群、石垣、虎口、天守台
占地
城跡は、眼下に日本海を臨む標高50mのパンモ山の南支尾根の末端、標高70m(比高ほぼ同じ)の小ピーク上に占地する。当地は西生浦倭城と機張倭城とのほぼ中間地点に位置し、両城間の中継基地的な役割を担ったと思われる。
歴史
文禄2(1593)年に毛利吉成・島津忠豊・伊藤祐兵・高橋元種・秋月種長らの九州系大名らが、築城と守備を担当した。
遺構
縄張りは、尾根上に平面L寺状に曲輪を並べ、東尾根と北尾根を堀切で遮断する、東西150m×南北120mの比較的小規模な城郭である。各曲輪には1箇所ずつ、合計3箇所の虎口を開口する。Ⅰ郭が主郭で、東北隅に天守台を設ける。全体的に比高差の少ない城域を石塁で仕切って曲輪化している。
Ⅲ郭北端の石塁開口部は、過去に発生した山火事の消火活動に伴う破壊道で、堀切にかかる“土橋”状もその際の埋め立てによってできたものである。
畝状竪堀群と思われる微地形は、堀切を隔てて城郭本体から少し離れて位置する、北隣の小ピーク周辺斜面に展開する。この小ピークは曲輪などの削平地や石垣などの構築物はなく、ピークの周囲はなだらかな自然地形の斜面のままである。畝状竪堀群は東斜面に1条と西斜面に7条が存在する。西斜面のものは比較的緩斜面に位置し4条が若干蛇行しながらも行儀よくほぼ連続して平行に並ぶ。断面形はトタン屋根のような形状を呈して4条とも幅は各3m、堀間は2m弱の等間隔である。
備考
山麓の小高い丘陵で幼稚園建設に先立つ事前の発掘調査が行われ、その際石垣や瓦窯が出土した。石垣は発掘調査終了後に場所を変えて、現在は住宅街の一角に移築復元された。
コメント