釜山倭城(プサン倭城)釜山母城

倭城
韓国名  甑山倭城( 증산왜성)チュンサンウェソン
史跡指定 なし
所在地  東区佐川洞山9-25(甑山公園)
築城年代 文禄
築城者  毛利輝元
主な遺構 石垣、虎口、天守台

占地

 城跡は、標高125m(比高ほぼ同じ)の甑山に占地する。当城は、朝鮮戦争当時は韓国軍の高射砲陣地となり、また戦後は動物園に利用された。現在は甑山市民公園となるが、その際の改変により城跡感には乏しい。当城は史跡には指定されていないが、近時、城跡内に説明板が設置された。

歴史

 文禄元(1592)年、同役の緒戦となった釜山浦の戦いで、宗義智率いる日本軍が朝鮮王朝側の釜山鎮城を攻略した。その跡地に毛利輝元・秀元が築城し、開戦から日本軍撤退まで朝鮮半島における日本側の司令塔的役割を担った。

遺構

縄張図(作図:堀口健弐)

 Ⅰ郭が最高所で主郭である。天守台Aは公園化に伴い曲輪面と同レベルに削平されているが、1976年当時まで一段高く残存していた。虎口Bも改変を受けていて本来は内枡形虎口であったが、現在も開口部を石積みで閉塞した跡が残る。(倭城址研究会1979『倭城』Ⅰ)。主郭西面の石垣の一部には、5個の矢穴が穿たれている残る。

 Ⅱ郭の虎口Cも同様に閉塞されており、進入方向向かって左手に櫓台が突出して横矢が掛かる。Ⅴ郭は城内で最も広い空間で、おそらく生活空間の場と思われ、外枡形虎口Dを開口する。

備考

 現在は消滅したが、かつては当城にも登り石垣が存在していたが、様々な資料から窺い知れる。朝鮮時代末期に作成された古地図『東莱釜山図屏風』(釜山博物館蔵)には、山麓と子城台倭城とを結ぶ空堀状微地形が描かれている。近代に作成された何枚かの測量図によれば、Ⅲ郭東端とⅣ郭南端から山麓に向かって2条の登り石垣が描かれている(髙田徹・堀口健弐「釜山倭城の縄張りについて」『倭城の研究』4、城郭談話会)。また近代に撮影された古写真(学習院大学東洋文化研究所蔵)にも、山麓に向かって延びる登り石垣が写っている(植本夕里氏のご教示)。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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