梁山倭城(ヤンサン倭城)

倭城
韓国名  勿禁甑山里倭城(물금증산리왜성)ムルグムチュンサンニウェソン
史跡指定 慶尚南道文化財資料第276号
所在地  梁山市勿禁邑勿禁里38-1
築城年代 慶長
築城者  毛利秀元、小早川秀秋
主な遺構 横堀、石垣、虎口、天守台

【占地】

 城跡は洛東江の左岸に立地し、瓢箪形をした標高130m(比高120m)の甑山に占地する。山頂からは、南方面に狐浦倭城や亀浦倭城を望むことができる。1750年代初めの古地図『海東地図』(梁山博物館蔵)によると、山麓に漢字で港を意味する「津」と記されており、往時は河道が今よりも山側に迫っていたようである。

【歴史】

 慶長2(1597)年に黒田長政が築城した。しかし倭城群では最も北端に位置し突出しすぎて危険なため、僅か数か月ほどで廃城となった。

 なお韓国側では伊達政宗の築城と伝えられるが、これは後世の誤伝である。

【遺構】

縄張図(作図:堀口健弐)

 当城は、山城部分と山麓居館で構成される。山城部分は、痩せ尾根上に曲輪を細長く一列横隊に配置する。Ⅰ郭が主郭で、東北隅に天守台を設ける。西隣の小ピークにⅡ郭、東尾根の緩斜面にⅢ郭を配置して、それぞれを登り石垣と横堀で連結する。そのためあたかも城郭本体が一枚の城壁のような印象を与えている。城外に面した石垣外周には横堀を巡らせ、一部で二重の構えになる。

Ⅱ郭は独立性の高い曲輪である。ここには現在では使われなくなった韓国陸軍の塹壕やヘリポートなどが残されており、過去と現代の軍事施設の対比が面白い。

山城の虎口を下ると、山麓居館のⅣ郭がある。ここは高石垣で築かれ、朝鮮陶磁器などの遺物の散布が見られることから、生活空間の場であったとみられる。

【備考】

 当城の縄張りは、秀吉の唐入りの御座所として築かれた対馬清水山城と酷似している。清水山城は宗・相良・高橋・筑紫ら九州系大名らが共同で築城し、梁山倭城の築城者とは異なっている。しかし両城は明らかに、共通の設計思想に基づいて築かれたように思える。

この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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