韓国名 東莱倭城(동래왜성) 史跡指定 なし 所在地 釜山広域市東莱区漆山洞山2-30 築城年代 文禄 築城者 吉川広家 主な遺構 曲輪、堀切
占地
城跡は、標高105m(比高75m)の望月(マンウォル)山に占地する。当城は海岸線や大河には面していないが、当時ここ東莱が釜山における行政の府であり、同時に商業地でもあったので、戦略的に同地を掌握する必要性からここに築城したと思われる。
山麓には、文禄元(1592)年に東莱邑城(前期東莱城)を舞台に繰り広げられた「東莱の戦い」で討ち死にした、朝鮮軍兵士を祀る忠烈祠(チュンニョルサ)が建立されている。
歴史
文禄の役の開戦当初、小西行長が攻略した東莱邑城(前期東莱邑城)の隣地に、吉川広家が文禄2(1593)年に築城して、守備も担当した。日本軍が撤退した18世紀に入り、城域を拡張して現在見る後期東莱邑城が再築されたが、その際に倭城の遺構の多くが破壊を被ったとされる。
【遺構】
現状は、倭城を横断するように後期東莱邑城の城壁が築かれている。Ⅰ郭が倭城の主郭である。現状では確認できないが、昭和初期の倭城測量図『九大倭城図』(九州大学蔵)によると、曲輪は石垣風に描かれている。現在は、邑城時代の楼閣「東将台」が復元されている。
Ⅱ郭は城内で最大の削平地で、東南隅Aが僅かに膨らみ横矢掛りの張り出しの痕跡とも取れる。これより下方から山麓にかけて、兵士の駐屯地とも近代の段々畑とも取れる細長い削平段が無数に続く。
尾根筋には二重堀切B・Cで遮断し、尾根上から南斜面にかけて竪堀状に変化する。
備考
1980年に復元された「東将台」の建設工事の際に滴水瓦(軒平瓦) が発見されたが、この軒瓦は小西行長の居城である麦島城(熊本県八代市)と同笵である(高正龍2007「豊臣秀吉の朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播」『渡来遺物からみた古代日韓交流の考古学的研究』科研報告)。これは小西が攻略した前期東莱邑城の屋根瓦を東莱倭城に転用し、小西自身も戦利品として本国へ持ち帰ったと考えられる。
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