倭城とは

倭城

3.倭城の基本構造

()占地

 倭城は、港を見下ろす入り江付近や大型船舶が航行可能な大河の下流域、それに大小の島々などに占地している(倭城址研究会1979『倭城』Ⅰ)。ただし例外もあり、東莱倭城はやや陸側に位置して海岸にも河川にも面していない。

立地形式は山城や平山城が主流であるが、倭城洞倭城や固城倭城は比高の低い海岸段丘上に築かれており、平城に近いような占地も見られる。

 当時は兵員や武器・弾薬・食糧などの補給物資は、船舶による海上輸送に頼っていた。港を確保することは作戦遂行上の必須条件であり、そのため港に適した入り江や河口付近などに多くが築かれた。また島嶼に築かれたものは、海上輸送路の中継基地として以外にも、軍船の漕ぎ手の休息などにも利用されたと見られる(坂井尚登2002「倭城の石垣と水の手」『城郭史研究』22、日本城郭史学会)。

 倭城の分布を微視的に見ると、文禄期の築城は本土と巨済(コジェ)島に挟まれた内海である鎮海(チネ)湾沿岸で集中的に築かれている。同海域の倭城は、互いに目視が可能なほどの密集隊形を組んでいるのが特徴である。これは複数の倭城が、湾口や海峡を挟んで互いに圧力を掛け合うことで、港湾守備や海峡封鎖を狙ったとものと考えられる。

 一例を挙げると、巨済島北部に位置する長木(チャンモク)湾では、湾口部の東側の岬に松真浦倭城、西側の岬に長門浦倭城が一体となり湾口の防禦を固めている。訥次(ヌルチャ)島と加徳島に挟まれた加徳水路(現在は砂州で繋がり袋状の入り江となる)を挟んで、訥次島側に加徳倭城、加徳島側に加徳支城が互いに向かい合うように占地する。このような占地形態は、日本国内の織豊期・近世城郭ではほとんど例を見ず、むしろ幕末台場や近代要塞でこの種の占地が多く見られるほどである。

 一方の慶長期の築城は、西部方面に戦線を拡大すべく追加築城している。また各倭城間の距離が各段に長くなり、港湾の最奥部に単独で占地するのが文禄期との違いである。

松真浦倭城と長門浦倭城の位置関係(GoogleMapより)

()縄張り

 倭城の縄張りは、織田・豊臣系大名の築城様式である織豊系城郭の構成要素「高石垣」「礎石建物」「屋根瓦」を使用する。決して臨時的な砦や陣地尾の類ではなく、恒久的かつ本格的な規模と構造であり、外郭線を含めると日本国内の近世城郭よりも大規模なものが少なくない。縄張りと石垣は、朝鮮半島の影響を受けていない純日本式の築城である(髙田徹1999「倭城の遺構―その構造と評価を中心として―」『倭城―城郭遺跡が語る朝鮮出兵の実像―』、倭城研究シンポジウム実行委員会)。

 ただし機張倭城、安骨浦倭城では朝鮮王朝側の鎮城を縄張りに取り込み、泗川倭城、固城倭城では、朝鮮王朝側の邑城・倉城などの城壁を倭城の外郭線として取り込んだ事例がある。これは朝鮮王朝側の城郭を利用することにより、敵軍に戦略上有利な地点を使用させない予防攻撃の狙いがあったと見られる。

 また釜山倭城、西生浦倭城、機張倭城、南海倭城では、韓国側で「母城」と呼ばれる城郭本体部に対して、「子城」と呼ばれる独立性の高い別郭を持つものがある。この母城と子城とを、登り石垣や竪堀・竪土塁による長大な外郭線で連結することで外界と遮断し、その中に山麓居館や駐屯地を囲い込む構造をとっている。

西生浦倭城のジオラマ(蔚山博物館特別展「蔚山の城郭」展示品を撮影)

()虎口

 外枡型・内枡形・食い違い虎口などの発達した虎口を開口する。それまでの天正期の織豊系城郭では、虎口など主要な箇所にのみ発達した虎口を開口していたが、倭城では曲輪ごとに連続して設けているのが特徴である。そのため導線が何度も屈折してまっすぐに進めず、攻め手は常に横矢の脅威にさらされるよう工夫を凝らしている。ただし倭城は山城が主体のため、枡型空間はいずれも道幅分程度である。熊川倭城では、主郭から外部に向かって外枡形や食い違い虎口を4重に連ねる厳重防御で、倭城ならではの姿を見ることができる。

 なお倭城では、馬出は一切見られない。倭城は山城が主流のため、物理的に馬出が築けなかったとも考えられるが、占地が平城に近い倭城洞倭城や固城倭城でも見られない点は留意すべきである。

安骨浦倭城の虎口

()天守台・隅櫓台

 多くの倭城では天守台を設けている。天守台は主郭の奥まった位置の片隅に置かれ、城外に向かって張り出すような構造をとるものが多い。中には城内に天守台を2つ備えた長門浦倭城や、天守台を3つ備えた安骨浦倭城があり、日本国内では絶対に見られない特異な構造を見せる。釜山倭城(母城)、同子城台倭城、固城倭城は、現在では天守跡と主郭面とが一続きになっているが、いずれも古写真によると一段高く築かれており、かつては天守台が存在していたことが窺える。

 倭城に限らず、安土桃山時代における天守の実態は不明な点が多い。明国の従軍画家が順天倭城と南海倭城の攻防を描いた絵画史料『征倭紀功図巻』によると(註)、順天倭城は3層で白漆喰塗の層塔型天守で、2層目の床面が初層よりも張り出す「南蛮造り」となり、日本国内の岩国城天守(山口県岩国市)に類似した姿である。南海倭城は、2層大入母屋の上に小さな望楼を載せた下見板張りの望楼型天守で、国内の犬山城天守(愛知県犬山市)に類似した姿である。日本文化を知らない明国の画家が描いたにも関わらず、当時の城郭建築や構造物を適格に表現している点から、実際に現地を見て描いた可能性が高く、また縄張りも現地の状況と一致することから、史料的信憑性が高いと思われる。

 隅櫓台は機張倭城、金海竹島倭城、安骨浦倭城、熊川倭城で見られるが、決して多くない。またその場所も、主郭など防御上の最終拠点となる曲輪に限定される。順天倭城は『征倭紀功図巻』によると隅櫓は僅かに1棟が描かれ、その他の曲輪ではコーナー部から一歩後退した位置に、井楼櫓が数多く描かれている。

征倭紀功図巻に描かれた順天倭城天守(順天倭城案内板を撮影)

註 同絵画史料は香港在住人の所蔵とされるが、所在の行方など不明な点が多い。現在WEBサイト上で閲覧可能な画像は、ゲーリー・レッドヤード元コロンビア大学教授が撮影し、サンケイ新聞1979年4月11日付け朝刊に掲載された写真の転載と思われる(黒田慶一1998「順天城と『征倭紀功図巻』」『倭城の研究』2、城郭談話会)。

()

 織豊系城郭では、石垣の導入と反比例して堀の使用が減少した。占地形態が平城に近い倭城洞倭城を除くと、曲輪群と城外とを区画する箇所に堀切を掘る事例はあっても、曲輪間に堀を入れて分断した縄張りは一つとしてない。曲輪間に比高差がほとんどない林浪浦倭城や長門浦倭城などでは、堀切を掘る方が防御力は増しそうだが、あえて堀切を掘らずに低い石塁によって区画している。

 また西生浦倭城や機張倭城では、石垣の周囲に平行して横堀を掘るが、これも国内ではほとんど見られない手法である。

 なお一部の倭城では、「畝状竪堀群」と呼ばれる竪堀数条を連続組み合わせた堀を使用する。西生浦倭城では横堀から3条の竪堀を落し、亀浦倭城、林浪浦倭城の他、子馬(チャマ)倭城C地点でも、その可能性がある微地形の存在が指摘されている(高瀬哲郎2000「倭城跡を訪ねて(2)」『研究紀要』6、佐賀県立名護屋城博物館)。熊川倭城の発掘調査では、岩盤を断面形が「W」字形に掘られた6条の竪堀群が出土した(海東文化研究院2016『昌原熊川倭城・所沙洞遺蹟』)。

 畝状竪堀群は、戦国期に全国的に多用された斜面防御施設であったが、織豊系城郭の石垣の導入に伴って一度は大きく後退した。しかし熾烈を極めた海外侵略戦争では、それまで培ってきた技術を総結集した縄張りの工夫がなされた事は想像に難くない。

熊川倭城の畝状竪堀群

()石垣

積み方 基本的に総石垣造りか、それに準ずる石垣の使用が見られる。但し小規模な倭城では、石垣を全く用いないか、使用量の少ないものも見られる。馬沙(マサ)倭城は、倭城の中で唯一石垣を築かない土造りの城である。また農所(ノンソ)倭城は、主郭部のみが石垣造りとなっている。

 石垣は曲輪面の高さまで一挙に高く積みあげ、織豊期初期に多く見られた途中に1・2段の犬走りを設けることはしない。積み方は、日本国内と同様に傾斜を付けて積むが稜線は直線的で、近世城郭特有の反りを付けて積むものはほとんどない。清正が築いた西生浦倭城では一部に若干の反りを持つ箇所があり、これは清正が帰国後に築いた熊本城の「扇の勾配」の原型とも取れる。

 石材は全く加工しない自然石だけで積む「野面積み」や、石材を真っ二つに割って割れ口の表側に向けて積み、石材同士の隙間に小さな石(間詰め石)を入れる「打ち込みハギ」が主体である。

意匠石垣 「立石」や「鏡石」のような見せるための意匠的な石垣が、倭城にも存在する。西生浦倭城では外郭線の隅角部に、一石で天端にまで達する巨石を用いた立石が残る。倭城の中でも最大規模となる石材で、地上に露出した部分だけでも高さ約2.5mほどあるが、横から見ると厚さ約80㎝の扁平な石材である。順天倭城では、内枡形虎口内に扁平で周囲より一際大きくて扁平な石材を配している。横幅約1.8mとそれほど巨大ではないが、周囲の石材の大きさとの対比させることにより、一際大きさを目立たせる演出効果を狙っている(現在は史跡整備のため消滅)。これらの石材は、後の近世城郭にみる「鏡石」の原形と理解できる。

矢穴 石材に矢穴(石材を割るためのクサビを入れる穴)を残す石垣は少ないが、一部で事例が見られる。大々的に矢穴を使用するのは順天倭城のみである。特に角石には、大型の幅15㎝前後×深さ10㎝前後の矢穴が、1個の石材に対して3~5個の割合で端から端まで穿たれている(現在の矢穴は復元されたもの)。隅角部の石材を算木積みに長短交互にするために大きさの揃った石材が必要で、それに見合った自然石を探し選別すよりも、人工的に作り出した方が早い逆転の発想によるものであろう。同城は、後に“築城の名人”と世に謳われた藤堂高虎が宇喜多秀家と共同で普請を担当しているが、ここに短期間で城普請を行う術の萌芽が看取できる。

 部分的に矢穴を使用するものに、釜山倭城、亀浦倭城、泗川倭城などがある。釜山倭城では、周囲よりも一際大きな築石の1個に矢穴が残り、幅8㎝前後×深さ5㎝前後の矢穴を2~3個の割合で穿たれている。これらの倭城では、いずれも築石の極一部に使用が限られており、石材を母岩から大きく半裁する作業工程の痕跡と思われる。

 亀浦倭城では「豆矢」と呼ばれる幅4.5㎝前後×深さ5㎝以下の小型の矢穴が1個の石材に対して1~2個の割合で穿たれている。豆矢は鉄製の矢で一般的に江戸時代中期頃から登場するとされてきたが、確実に慶長3(1598)年に廃城の倭城に見られることから、最も早い時期での使用例と位置付けられる(註)。

註 同サイズの矢穴は、近年の肥前名護屋城石切場の発掘調査でも出土している(市川浩文2014「肥前名護屋城の石切場」『織豊期城郭の石切場』、織豊期城郭研究会)。

採石場 金海竹島倭城、梁山倭城、亀浦倭城、安骨浦倭城では城内や占地する山中に、矢穴の残る露岩が見られる。松真浦倭城や順天倭城では、採石途中で放棄されたと見られる矢穴の残る石材(いわゆる「残念石」)が、周辺の海岸線の所々に今も残っている。このことから石垣用石材は、築城地周辺からの現地調達であったと見られる。

刻印 倭城において石垣の刻印は未確認である。ただし東三洞倭城では曲輪より下った地点で、現代の民墓の結界に利用された石材上面に刻まれたものがある。元々城郭石垣として積まれていた石垣が崩壊しそこに刻まれていた刻印石を再加工し民墓造営に際して利用しととも考えられる(羅東旭1999「韓国釜山市域の倭城の現状」『倭城―城郭遺跡が語る朝鮮出兵の実像―』倭城研究シンポジウム実行委員会)。刻印石そのものは長径76㎝×短径40㎝の小型の石材で、直径16㎝の〇印の中に卍の記号を描くいている。

西生浦倭城山麓部に残る立石

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 多くの倭城では、瓦片の散布を目にすることができる。瓦は総て朝鮮瓦で、それらは叩き目紋様が青海波紋や綾杉紋などで、和瓦とは大きく異なっている(山崎敏昭・降矢哲男1999「瓦類」『倭城の研究』3、城郭談話会)。瓦の供給基は近隣の邑城や寺院からの転用が想定されるが、その供給基が特定された事例はない。

機張倭城で発見の軒平瓦は、長安(チャンアン)寺(釜山広域市機張郡機張邑)で出土の軒平瓦と紋様構成が似ているように思える(釜山博物館2015『釜山葺瓦』)。同寺は文禄元年に日本軍の焼き討ちで焼失したが(現在の伽藍は17世紀の再建)、その際に屋根瓦を倭城の建設資材として持ち去った可能性も考えられる。

西生浦倭城では、加藤清正が本国肥後に対して瓦を焼いて船で送るよう指示を出しているが(中野等2014「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」『加藤清正』戎光祥出版)、同城内では和瓦の散布は一切見られない。おそらく指示は出したものの、何らかの事情で実現に至らなかったのであろう。

 金海竹島倭城、機張倭城、東莱倭城、南海倭城、子馬倭城では、「滴水瓦」(和名を剣高瓦とも云う)と呼ばれる、瓦当が木の葉状を呈する朝鮮半島様式の軒瓦が見つかっている(黒田慶一1997「倭城の滴水瓦について」『倭城の研究』1、城郭談話会 。羅東旭2000「南海倭城の滴水瓦」『倭城の研究』4、城郭談話会)。滴水瓦とは雨水の雨垂れを良くする目的で中国・元の時代に考案され、朝鮮半島へは高麗時代末期から朝鮮時代初頭頃に伝播した軒平瓦である。

滴水瓦の発見位置は、機張倭城では主郭隅角部の直下で、南海倭城は天守台の直下である。このことから滴水瓦は、天守や本丸隅櫓などの象徴的な建物に限定的に葺かれていたと考えられる。

 ただし総ての倭城で滴水瓦が見つかっているわけではない。順天倭城(順天大学校博物館2001『順天倭城外城試掘調査報告書』)では軒瓦が出土しておらず、軒瓦を用いたのは一部の倭城だけにとどまった可能性がある。

 滴水瓦の中には、倭城や朝鮮王朝側の城郭と日本国内の城郭瓦とで同笵(同じ木型で作られた瓦)が認められる物がいくつかある。東莱倭城出土の軒平瓦は、小西行長の居城の麦島城(熊本県八代市)と同笵である(高正龍2007「豊臣秀吉の朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播」『渡来遺物からみた古代日韓交流の考古学的研究』科研報告)。蔚山兵営城出土の軒丸瓦は、加藤清正の支城の佐敷城(熊本県葦北郡芦北町)と同笵である(高正龍2015「蔚山慶尚左兵営城と熊本佐敷城の同笵瓦―豊臣秀吉の朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播(2)―」『東アジア瓦研究』4、東アジア瓦研究会)。 

 また同笵ではないが、蔚山兵営城と熊本城(熊本市)の軒平瓦は類似した紋様である(大脇潔2012「周防・長門甍紀行―吉川広家・大内義弘と山本勉弥―」『民俗文化』24、近畿大学民俗学研究所)。

日本軍が帰国時に朝鮮半島から瓦を船で運搬したことは知られているが、これを軍船のバラストとして利用したとみる向きもあるが(黒田慶一2011「秀吉軍の日本搬入の朝鮮瓦について―東莱倭城との関係から―」『倭城―本邦・朝鮮国にとっての倭城とは』倭城研究シンポジウム実行委員会・城館史料学会)、異国情緒溢れるデザインの軒瓦は単なる再利用にとどまらず、戦利品として本国に持ち帰り自らの居城に葺いたとも考えられる。

なお数は極めて少ないが、逆に日本から朝鮮半島に持ち込まれた物もある。大曲美太郎氏は戦前に釜山子城台倭城にて、「子城台の東部、石垣に接した地下一尺余りの処より軒唐草瓦(蝶文様)の破片が数個」出土したとするが、この軒平瓦は残念ながら現在は所在不明となっている。これと同笵の軒平瓦が沖城(長崎県諫早市)でも出土しており、大曲氏は蝶紋を対馬宗氏との関連で考察している(高正龍2019「豊臣秀吉の朝鮮侵略と和瓦の伝播―韓国釜山子城台倭城と長崎県諫早市沖城の揚羽蝶文軒平瓦―」『東アジア瓦研究』6、東アジア瓦研究会)。

機張倭城の軒平瓦
南海倭城の軒平瓦と軒丸瓦
この記事を書いた人
堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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