6.史跡整備された倭城
倭城はいわば侵略した歴史の“負の遺産”であるが、近年では韓国側でも歴史遺産として保存し活用しようとする動きがみられる。これに伴い、いくつかの倭城では史跡整備が行われた。それ自体は大いに歓迎すべきで事柄あるが、細部については歴史考証など問題点も少なくない。
泗川倭城は、戦前から元城主の子孫が城跡を顕彰して守られてきた。元々当城は石垣の残存状態が悪かったが、2000年代に入り新しい石材に入れ替えての大々的な石垣の修築や、一部建築物の復元が行われた。しかし日本の石垣修築でも同じことが言えるが、城郭石垣研究にとっては石材こそが「一次史料」であり、石垣石材の一つ一つには石の産地や石材の加工技術など様々な情報が含まれている。これを撤去して交換することで大事な歴史的情報が失われてしまう矛盾点を抱えているのである。
また発掘調査成果を基にして、城門と土塀の一部が復元された。上屋構造については史料が一切残らないため、日本の城郭建築の典型例として姫路城が参考にされた。姫路城には、朝鮮文化の影響を受けて日本で焼かれた滴水瓦が天守や主要な殿舎に葺かれているが、この意味を理解せずに外観だけを真似てしまったために、泗川倭城の城主は島津氏であるにも関わらず、軒平瓦に姫路城城主の池田家の家紋である「揚羽蝶」をあしらうなど、誤った復元を行ってしまった。
順天倭城は、土取り工事の候補地に挙がったため、順天市文化芸術課がまず史跡整備してこれを楯に取り、開発から守られた経緯があった。しかし整備に際して修築した石垣が、勾配をあまり付けずに積んで日本風でなかったことが、国内外ですこぶる不評であった。そこで2004年、長らく肥前名護屋城で発掘調査と整備に携わった高瀬哲郎氏を招聘し、一度積んだ石垣を一旦解体させて、異例とも言える2度目の修築が行われた。これにより伝統的手法に則った日本式石垣が蘇った(『佐賀新聞』2005年3月27日付)。
蔚山広域市では、同市内に残る倭城の整備が相次いで行われた。蔚山倭城では、2017年から元々残存状態が悪かった本丸石垣の一部が復元された。
西生浦倭城では2016年に、明国の提督・麻貴が慶長の役の戦勝を記念して建てた蒼表堂(チャンピョダン)が発掘調査の成果に基づいて復元された。また2017年から石垣の第2期修築工事が開始された。
機張倭城では、29億ウォン(当時のレートで約2億3000万円)を投じて駐車場、遊歩道、トイレ、解説板などを設置した(『西日本新聞』2009年6月1日付)。ただし同城は釜山広域市の史跡であるが、土地自体は教会の私有地のため、近時、耕作地化されフェンスを巡らして立ち入り禁止となった(植本夕里氏のご教示)。
昌原市の安骨浦倭城では遊歩道と説明版の敷設の他、案内所やトイレも併設され、ほど良い整備がなされている。同市の熊川倭城でも山頂部の遺構を中心に、雑木の伐採作業が定期的に行われている。
南海郡の南海倭城は史跡には指定されていないが、韓国の国立晋州博物館と日本の佐賀県立名護屋城博物館との共同調査により、それまでブッシュだった天守台の樹木が伐採された。また登り口には、日本人研究者作成の縄張り図入り説明版が設置された。
なお史跡整備ではないが、機張郡文化観光課では『九大倭城図』を基にした林浪浦倭城の復元模型を5000万ウォン(当時のレートで約400万円)かけて制作し、機張文化院に展示されている(『西日本新聞』2009年6月1日付)。
史跡整備はその後の維持管理も問題となる。倭城の事例ではないが文禄・慶長の役の関連史跡のうち、泗川邑城、密陽邑城、後期東莱邑城では、せっかく史跡整備したにも関わらず、その後間もなくして復元した石垣が崩壊するなど、設計ミスないしは手抜き工事と思われる案件も発生している。史跡整備に際しては、事前の業者の選定や設計工法などを行政側が日韓の研究者と連携して行うことで、厳しい目で見守っていく必要を痛感させられる。


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