倭城とは

倭城

7.倭城が日本の城に与えた影響

 倭城は朝鮮半島での苛烈な戦闘を経験して築かれ、その築城技術を日本国内に逆輸入することで、関ヶ原の合戦以降に築かれた近世城郭へと変貌を遂げた。それまで石垣を築いた経験のなかった四国や九州の大名も、倭城普請で石垣構築のノウハウを学ぶことで帰国後に自らの居城に石垣の城を築いたのであった。その中でもとりわけ影響を与えたのは、登り石垣と滴水瓦である。

登り石垣は、帰国後に豊臣系大名が築いた居城を中心に採用された。水軍の将として活躍した脇坂安治の洲本城(兵庫県洲本市)、加藤嘉明の伊予松山城(愛媛県松山市)、彦根城(滋賀県彦根市)などのほか、山頂と中腹の曲輪を結ぶ短いものに赤松広秀の竹田城(兵庫県朝来市)、吉川広家の米子城(鳥取県米子市)などがある。

 遺構としては残らないが、蜂須賀家政の徳島城(徳島市)は木柵で山麓居館と連結していたとされ、新宮城(和歌山県新宮市)は『紀州熊野新宮浅野右近太夫忠吉居城古図』(三原市立図書館蔵)によると、土塀で河畔の船着き場を包括する形で連結していたようである。

 ただし日本の近世城郭の登り石垣は、山頂部と山麓居館とを連結するのが基本であり、倭城のように駐屯地全体を囲郭するものは築かれなかった。

 滴水瓦は、文禄・慶長の役後に朝鮮出兵帰りの大名が、ある大名は現地の滴水瓦を戦利品として本国に持ち帰り、またある大名は朝鮮半島の瓦工人を招聘して日本国内で同じ物を焼かせるなどして、自らの居城に葺いた。朝鮮半島から直接持ち込まれた物に、麦島城(熊本県八代市)、佐敷城(熊本県葦北郡芦北町)、金石城(長崎県対馬市)、月山富田城(島根県安来市)などがある。日本で焼かれた滴水瓦は、現存例では熊本城と姫路城(兵庫県姫路市)の物が有名である。また発掘調査での出土例は、和歌山城(和歌山市)、甲府城(山梨県甲府市)など枚挙に暇がない。このように滴水瓦の使用は西日本の近世城郭に多いが、これは西国大名が数多く朝鮮半島に出兵したことに起因している。

 倭城で用いられた登り石垣と滴水瓦は、その後の日本の近世城郭造りに大きな影響を与えたのである。

洲本城の登り石垣

(文:堀口健弐 写真:植本夕里)

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堀口健弐

城郭談話会会員。日本考古学協会会員。研究テーマは倭城と日韓の城郭。

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